教育×読書 共感障害「話が通じない」の正体(2)話が通じない人の特性を理解する!

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 前回は認識フレームの違いによって共感障害が起きることについてまとめました。

umi-kaze2.hatenablog.com

 今回は、共感障害になりやすい人の特性についてまとめていきます。

要約

共感障害になりやすい人の特徴がある。それは、自閉症スペクトラム障害ASD)、注意欠如多動症ADHDの特性をもつ人だ。

 まずは、自閉症について詳しく見ていこう。

自閉症という名の弊害

 実は、「自閉症」について多くの日本人は誤解している。「自閉症」の英語対訳は autism である。

 独自の世界観で物事を見、独自の手法でコミニケーションをとるので、自己完結で動いているように見える。「典型的な人」には分かりにくいだけで、別に「外界を拒絶して、自分の中に閉じこもっている」わけではない

 つまり、自閉症と言うのは、「自分の中に閉じこもって、人を拒絶する」障害の事ではなく、「独自のものの見方をするため、汎用の典型的なコミニケーションが成立しにくい」症状のことである。

 それが、軽微であれば個性派と呼ばれ、中道であればかたくなな変人に見え、重度であれば障害者と呼ばれる。英語では、軽微なものから重度なものまでを包括して autism と呼んでいる。

 それらの明確な境界線はなく、シームレスである。そして、ある脳にどの言葉が与えられるかは、所属する社会のコミュニケーションモデルの厳格さに左右される。ある国では個性派と呼ばれる人が、別の国では社会生活不適応者の烙印を押されたりするわけだ。

 日本では、autism は自閉症と名付けられた。この対訳のせいで、「自分の空に閉じこもって、人と関われない」障害として認知されてしまったのである。つまり、重度のautismを言葉で作り出し、個性派と隔離してしまったのだ。

障害としての自閉症

 人種と文化のるつぼであるアメリカは、オーティズムに理解のあるお国柄である。社会生活不適応者を個性派ビジネスパーソンに変えるため、社会の包括力を上げようとしている。

 対する日本はどうであろうか。個性派の若者が潰されていく国に見えて仕方がない。若者同士が「あいつは空気読めない奴」「むかつく」などと、個性派を攻撃している。

 そんな日本で、オーティズムは自閉症と言う名称を与えられた。

 確かに、社会支援が必要な障害者としての自閉症児が存在する。

 認識フレームがとても作りにくいので生まれてくる子がいるからだ。

 人の認識フレームは3歳までに大量に生成される。生まれてきた環境を知覚し、言葉や所作などを生きていくための基本的な全てを手に入れるためだ。もちろんその後も認識フレームを作られ続ける。特に8歳は空間認知と身体制御の発達臨界期と言われ、ここまでが、感性の基礎となる認識フレームの生成期にあたる。

 認識フレームの作りにくさが重度だと、言葉の認知さえできないので、知的障害児として支援が必要になる。

 ただしその場合でも、「とても作りにくい」けれど、「全く作れない」わけではない。自閉症児の脳を理解さえすれば、認識フレーム生成を手伝ってあげられる。脳は個性を持ったまま、ゆるやかに進化できるのである。

感じすぎる脳は、世界が分からない

 神経細胞ニューロンの数は、生まれ落ちたその瞬間が、人生最多である。そのニューロンは、3歳までに、急速に数を減らしていく。一方で、それらをネットワークする神経細胞繊維の数は劇的に増えていく。

 ニューロンは、認知のために使われる細胞だ。つまり、外界を感じる能力は、生まれたときに最大なのである。

 しかし感じすぎるのは、物事の判断を付けにくい。

 3歳までは、認識フレームを量産する時期にあたる。認識フレームから外れた「些末なこと」を、脳は直感的に無視していく。つまり、人生最初の脳の進化は、いらない情報を捨てて、とっさに使うフレームを確定することなのである

 自閉症児は、感じすぎる脳の持ち主であるために、「要領よく捨てる」ができない。

 「わからない」のでもなく「感じない」のでもない。決して、「自閉」しているわけじゃないのだ。逆に、世界とつながりすぎているのである。

 自閉症児が音に敏感で、雑踏音など街の窓に耐えられない事はよく知られているが、逆に言えば、一般の人もきっと最初はそうだったのだ。育つにつれ、脳が雑踏音をある程度無視できるようになったのである。

ADHD自閉症の対局

 共感障害は、ミラーニューロン過活性(自閉症児)にだけ起こるわけではない。

 ADHD自閉症によく似たコミニケーション障害を呈するため、自閉症とともに語られることが多いが、ミラーニューロンを基軸に考えると、実は対極の象徴と言える。

 ADHDは、ノルアドレナリン欠乏で起こる、極端に注意力散漫な状態。ノルアドレナリンは、集中力は注力を作り出す脳内ホルモンである。

 注意力が散漫なために、周囲のいろいろな店がチラチラ目に入るが、その関連性を見抜く能力が低い。このため、一つ一つの認識フレームが単純な代わりに、その数が多いのが特徴である。認識フレームの「無責任」量産型なのである。

 周囲の情報が微細脳に飛び込んできて、その関連性を主張してくるために、認識フレームがなかなか作れない自閉症とは対極の脳である。

 ADHDの人は認識フレームがシンプルなので、潔く「世界」を切り取る傾向にあり、判断が素早い。その判断が間違っていたときは、別の認識フレームに素早く差し替えて対応できる。

 ただ、人の思惑を想像するのが苦手なため、意見の違う人と話し合って折り合うのが難しい。思い通りにならないと、いきなりキレてしまうこともある。

 紙芝居のように、認識フレームを切り替えて使っているだけなので、「ここがダメなら、ここをこうしてみよう」という微調整が効かない0か100か、となってしまうのである。

教育と関連して

 共感障害になりやすい特性にADHDASDがあることを知りました。どちらの特性も場の空気を読んだり、その場に合ったコミュニケーションをすることが苦手な傾向にある人が多いように思います。外から見た感じでは、どちらも「コミュニケーションが苦手」とひとくくりにされてしまいがちですが、脳の中を比べると真逆なんですね。

 ASDADHDも環境を整えさえすればものすごい力を発揮してくれるはずです。しかし、今の学校でその能力を発揮するのはなかなか難しい状態にあるのではないかと考えます。著者も『日本では、個性派の若者が潰されていく国に見えて仕方がない。若者同士が、個性派を攻撃している。』と述べていましたが、本当にその通りだと思います。

 「逸脱するものを認めない」「はみ出すものを許さない」そんな雰囲気を学校が、教師が作り出しているのではないでしょうか。

 「誰もが自分の個性を発揮してお互いを認め合える学級、学校を作っていきたい」と改めて心に刻む機会となりました。